明治・大正・昭和
明治・大正・昭和
宮ヶ瀬村の風景(明治初期)
【横浜開港資料館所蔵】
片原橋前の風景
徳川幕府が大政奉還を行い、明治維新を迎えると煤ヶ谷村、宮ヶ瀬村は神奈川県に所属しました。その後、明治5年にいったん足柄県の所属となり、明治9年に再び神奈川県の所属となりました。
当時の村の規模は、煤ヶ谷村が236戸・人口1227人、宮ヶ瀬村が84戸・人口437人でした。
明治6年には、小学校が開校され学校教育が始まりました。現在の緑小学校は崇立館第四小学校として、宮ヶ瀬小学校は崇立館第五小学校としてスタートしました。
明治17年には、両村により連合戸長役場が設置されています。その後、明治22年の町村制施行により、この地域は煤ヶ谷村外一ヶ村組合となりました。なお、当時の役場は煤ヶ谷村の原地区に設置されていました。
明治から昭和の戦前にかけては、炭焼きとともに養蚕が産業の主役となり、炭は近接の町へ繭は近郊の製糸工場へ運ばれていきました。
大正15年には、それまでの馬車に代わって乗合バスが登場。当初は、煤ヶ谷村の坂尻と厚木の間で、1日10往復の運転が行われていました。
煤ヶ谷村宮の前の風景(大正末期)
水害による家の移転(昭和14年)
自動車が登場してくると、道路の建設も進められました。昭和3年には、宮ヶ瀬村久保の坂道路、昭和7年には丹沢林道、また昭和9年には落合道路の起工式が行われています。
太平洋戦争による被害はありませんでしたが、村からは多くの男性が出征していき、日常生活は非常に困難な時代が続きました。
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更新日:2021年10月21日